その日は突然やってきました。
いつものように朝がやってきて、いつものように家族で朝食。いつものように子供たちを二人で送り出したのに。
なんとなく、その日は私はどうしても仕事に行く気になれませんでした。今にして思えば、主人を「一人で逝かせたくない」という虫の知らせだったのでしょうか?
二人で寄りかかりあいながら仕事を休むための口実を考えていました。
「子供が具合悪いことにしよう」と私は立ち上がり、「TVがついている部屋ではリアリティががないから、隣の部屋でかけてくるわ」と子供部屋に向かいました。そのとき、私の背中に「戻ったらコーヒーお替りね」それが最後の言葉でした。
心苦しくもありましたが、会社に欠勤の電話をしていたのは、長くても3分くらい。主人のいる部屋に戻ったとき、私は自分の目を疑いました。
主人がのた打ち回っている。鬼のような形相で喉をかきむしって。
「どうしたの?」「どこが苦しいの?」・・・何も答えてはくれません。「救急車呼ぶよ、いいよね?」震える手で受話器を握りしめ、半狂乱で叫んでいました。「心臓の発作です、早く来て!!!!!」
苦しんでいたのは今にして思えば5分くらい、だったのでしょうか。抱きかかえた私の腕の中で苦しんでいた主人でしたが、急にふ、と力が抜けました。
そしてさっきまでの鬼のような形相がうそのように優しい顔で「おう」と言いました。
照れ屋の主人は結婚してからの12年間、一度も私を名前で呼んだことはなく「おう○○取ってくれ」「おう買い物行くか?」ていう感じで、私にはいつも『おう』と呼びかけていました。
その「おう」と呼びかけた直後、体からすぅっと力が抜け、目をつぶってしまいました。
私はものすごく嫌な気分になり、「逝かないで!!!」と叫んでいました。
その数分後でしょうか、救急隊員の方が駆け込んできました。「助けて 助けて お願いですから助けてください」泣き喚きながら救急隊員の方に懇願していました。
心臓マッサージやいろいろな処置をしている間中、私は主人の足をさすっていました。
大柄な主人のため、今来ている救急隊員だけでは運び出せない、と救援が呼ばれました。
救急車が足りなかった、とかではしご車で駆けつけてくれたので、野次馬が大勢家の回りを取り囲んでいたのを思い出します。
救急車に乗り込むときにようやく義父母も到着。主人には私が付き添って救急車に乗り込みました。
途中、車を止めては何回も電気ショックで心臓の動きを取り戻そうとしてくれていました。
一瞬だけ体が跳ね上がるんです。そのときの手の動きに私は小さな希望を繋いでいました。
・・・でも。主人の手は意思をなくしたようにストレッチャーからだらんとぶら下がったまま・・・ その手をずっと握り締めていました。
病院に着いて、すぐに救急処置室へ。
「あまり期待はしないでください」先生の言葉に「助けてください」としか私は言えなかった。
2回の蘇生術の後、「残念ですが・・・」
初めての発作のとき、3日間は意識がなく、私がお世話したことは一切覚えていなくても、子供達が顔を出したときに意識がはっきりしだした、ということがあったので、義父母に頼んで子供達を学校に迎えに行ってもらっていました。
でも、間に合わなかった。子供達を待たずに逝ってしまったんです。
今でも忘れられません。主人に取りすがって泣いたときのストレッチャーの冷たい固さ。
這いつくばって号泣した処置室のリノリウムの床の冷たさ。
見る見るうちに体温が下がっていく主人の手の温もり。
この日の朝はコーヒーを飲みながら庭を眺め、「梅がほころんできたね」と会話をしました。
それが忘れられません。
2006.春